長く陰鬱な梅雨が明けて、夏らしい太陽がぎらぎらと輝きだしたある日、スーパーマーケットに立ち寄った僕は、エレベーターの傍らに書かれた、小さな落書きを目にする母子の会話を耳にした。
   「真実がひとつなら、すべてはもう決まっているのかなぁ…」
子どもは無邪気に反芻している。すると、傍にいた母親はこう答えた。
   「こんなところに落書きしちゃだめよ」。
子どもは、きょとんとしながら母親を見つめ、やがて二人は、何事もなかったかのように、そこから立ち去っていった…。

   彼女のとった行動は社会的には正しいものだ。ただ二人が立ち去った後も、僕には、この母子のやりとりが妙に気になっていた。現実は真理の許容を凌駕することさえあるのかもしれない、と。だとすれば、資本主義社会はギリシャ神話を駆逐するのだろうか。

   気がつけば、時代は昭和から平成に変わっていた。
   店の営業は11:30から27:00まで。盛り上がるのは、深夜も零時に近づく頃だ。街の色濃い面子がカウンターを跋扈する。当然、時間内に店を閉められるはずはない。音楽家、美術家、写真家、デザイナー、ファッション・デザイナー…どう見ても妖しげな自称クリエイターたち。みな馴染みの客ばかりだ。ホールでは真夜中を裂くぼろぼろのタンゴと感傷的な女の腰がゆっくりと交わっている。その狂ったステップを肴に、僕と店の仲間は毎夜アルコールを流し込んだ。次の日のランチ担当はロシア式ルーレットのごとく戦々恐々としたものだろう。

   仕事着は、リーヴァイスの501に、白いコットンのボタンダウン。冬場はそれが黒のタートルネックに変わる。これが僕らの戦闘服だった。上品かつ知的、ウィットという名の刃物を懐に携えたコンサバティブ・ゲリラ。アンディ・ウォーホル(※1)やウディ・アレンがモデルだ。僕はできるだけ飲食業界の人間らしからぬように努めた。なぜかって? 理由は簡単だ。当時の飲食業界の仕事着といえば、気の利かない飲食店向けの制服か、あまりにも統制の取れていない私服ばかりだった。選択肢は寛容だが、狭かった。とどのつまり、どれもこれも、あまりに退屈なのだ。

   そうこうするうちにカウンターを巣食っていた魑魅魍魎が扇動者となって、流行りの雑誌に紹介されはじめた。それと比例して店は確実に繁盛していった。皿やグラスのあたる音や話し声の喧騒の中、純朴なカップルたちは語らいの場に。狩猟を行うハイエナたち。コース料理を食べるカップルの横で、コーヒーを飲む老人。ジャック・ダニエルを浴びるほど飲むアル中美容師。その背後では、女の子たちとアップルケーキがダンスする。

   夜が更けると、恋する二人の為にチェット・ベーカーを、ターンテーブルに乗せた。もちろん、アルバム1枚を垂れ流すことなんてしない。サティの「ジムノペディ」の後には、10ccの「アイム・ノット・イン・ラヴ」。キース・ジャレット(※2)の奏でる美しい旋律の後には、ゴージャスなストリングスをバックに、ジョアン・ジルベルト(※3)が囁く「'S Wonderful」夏の夜。溶解した甘い時間に僕らも酔いしれた。〝なんて素晴らしい夜なのだろう〟と。

   そういえば、2003年のジョアンのまさかの初来日には驚かされた。ひょいと近所に買い物にきたかのように、ギター一本たずさえて神は降臨した。
   コンサート会場の入り口で、僕たちの音楽レーベル、「フィッシュ・フォー・ミュージック」で付き合いのあるミュージシャン、〝サイ・ゲンジ〟氏と会った。ヘラヘラ笑いながら、一言二言ことばを交わしたが、何を話したか正確には覚えてない。

1時間遅れの開演、彼の孤独な時間を紡ぐようなステージ。そして30分の空白。
その時ジョアンは笑っていたのか、泣いていていたのか。それとも眠っていたのだろうか…。
ただ僕にはそんなことはどうでもよいことだった。
起こった出来事の深みに触れることは誰にも出来はしないのだから。

そして沈黙を破り、ジョアンは小さく呟いた。
I'm kissin' each hand,each heart.
Eu beijo a cada mao, cada coracao.
Arigato Japao.
溶け始めた時間の中、思い出がサンバを踊り出す。
すべてが夢のようで涙が溢れた。
そして考えた…。

もう一度繰り返そう。
資本主義社会はギリシャ神話を駆逐するのだろうか。

売上のたたない店は、淘汰される。
売れないミュージシャンは、薬に溺れる。
心のない音楽は、命を汚す。
利益を優先する飲食業は、神の怒りをかう。

どうする?永遠の課題だ。