Vol.10
 お店というものは開業したその日が100点であるはずがない・・と、思っている。
できるならオープニング・レセプションをしたくない、プロとして恥ずべき小心者である。
現場のスタッフたちは、内装OK、商品OK、オペレーションOK、モチベーションOK、「さぁ、どこからでもかかってきなさい!」と、テンション最高潮であるにもかかわらずだ。

話は変わるが新品の服を着るのがひどく気恥ずかしいことがある。特に買いたてのシャツの肩や腕の部分の折り目に「お前は、日々清く正しく生きているのか?」と問われているような羞恥心を感じる。

フランス・ニューヨーク・ロンドンなど、業態リサーチと遊びをかねて海外に行くことがある。最新トレンドのレストランは一応食べに行くのだが、最終的にはどうしてもしっくりこない。きれいな金髪のお姉さんに「Enjoy!」と言われても緊張するばかりだ。
結局、昔からある下町の食堂や、学生がたむろするカフェ、地元の爺さんたちが集まるパブ、はきだめのようなライヴハウスに“居心地の良さ&かっこよさ”を感じてしまう。

結局は、
ハーヴェイ・カイテル(注1.)の皺のような“バタ臭く”て、“いなたい”感じが好きなのだ。

“バタ臭い”、“いなたい”とは、「ナウなヤングのアベック」くらい死語仲間であるため、現在日本語として通用するかどうかも定かではないが、表現としてはこれがぴったりくるため、僕たちの間では暗号のように使われている。
“バタ臭い”とは、「バタくさい顔立ちの俳優だ」「それはバタくさい考えだ」などと使われていたことから、「外国かぶれめ!欧米かっ!」と上から目線で言い放つ、島国特有の排他的感覚で流通していたと想像される。
そして、“いなたい”に、至っては「田舎っぽい」「やぼったい」「いけてない」「ダサイ」・・など、人としての存在価値をじゅうぶんに粉砕する言葉のクラスター爆弾として配置されていた。

“バタ臭い”、“いなたい”ともに否定的なニュアンスで使われていたようなのだが、僕たちにとっては、ポール・オースターが映画「スモーク」(注2.)で夢見た世界を表現する言葉として、実にしっくりくる。

関西のバンドマンの間では、“いなたい”を、「ファンキー&ブルージー、グルーヴィー&泥臭い、かっこいいこと」と意味して使用するらしい。

そういえば、ジム・ジャームッシュの映画、“コーヒー&シガレッツ” (注3.)でのトム・ウェイツとイギー・ポップの噛み合わない会話は、“バタ臭く”って、“いなた”かったなぁ〜(喜)。

いい店とは、隙があり、皺があり、ただただそこにある。
いろんな人がそこで泣き笑い・癒され・元気をもらう。
世界至高の聖者も極悪の犯罪者も、肘突き合わせる町の教会だ。

50年後も100年後も、お店がそこにある。
重ね綴れ織られた、愛おしい時間がそこにある。

そう。
なにげない日々の営業が、僕たちの最高のレセプションなのです。