Vol.27

やっと、更新します・・
なんとなく連ねてきた“ねじレノンののれん”も、なんと30回。
不定期かつ気まぐれな上、"ねじれた駄筆"と、「恥の書き捨て」も極まった感もありますが、怖いもの・ゲテモノ見たさにチェックしている“ねじれた方”も、少なからずいらっしゃるという奇跡に甘え、“ねじりあげ続けようか”と思いますので、よろしくお願いします!

前回のご紹介した"謎の中華料理屋"の件は、意外な反響を呼んだ。
「あの店はいったい何処?」「ウニそば食いてぇー」「教えて教えて!」「もしかしたら、あの店?」「教えなければお前の秘密をばらす!」等々、まさかこの人が僕のブログを読んでたの?から、初対面の方に至るまで、本当にいろいろな方に食いつかれることとなった。ということで、改めて「おいしい」に対する、人間の興味、欲の深さ?に改めて感じ入るとともに、「おいしい」とは、一体全体なんであるのかを考えさせられた。

「あそこの店おいしいから」って、行ってみて“がっかり”することないですか?
雑誌に掲載されたおすすめの店に行ってみて“がっかり”。インターネットの情報で行ってみて“がっかり”。高級店!期待大!行ってみて“がっかり”。
そんながっかりが蔓延る“美味しいもの話ジャングル”には、死屍累々の屍が忘れられた歴史として葬られている一方、紹介された人には笑顔で「実においしかったですなぁ〜」などと虚言するのは、自分の味覚の自信のなさか、世間様に迎合しなければ村八分になるかもしれないという恐怖心からなのかもしれない。
歴史は勝者のみが作り上げていくと聞いたことがあるが、「おいしい」or「おいしくない」という風評は、現代の魔女狩りにも似て、心ある人々の生活を脅かせる今日この頃である。誠に恐ろしいかぎりだ。
臆病者の僕としては、初めての店に行く場合は期待せずに行くように心がけているし、お店を紹介する時も「まぁまぁおいしいかなぁ?」などと、可愛らしくお茶を濁す。「ふだん何を食べているのか言ってごらんなさい、そしてあなたがどんな人だか言ってみせましょう(ブリア・サヴァラン(※2))」って高飛車なセリフもある。
そんなこんなで、軽率にウニそばの店は教えることはできないのである。

しかし、「おいしい」とはどのような基準で図られるものだろうか?
何人かのグルメな知人に聞いてみると、それは経験値だという人もいれば、コストパフォーマンスだという人やら、育ってきた環境だという人、果ては、DNAにさかのぼる民族の血脈などとたいそうな話まで出てくる始末。それ自体を論ずることが、バカバカしくもあるのだが、“同じアホなら見るアホ”とばかり、「おいしい話」に参加したほうが断然、楽しい。

「おいしい」とは、主観が大勢を占める感覚の部分である。
それは、法則性があるものではなく、絶対的に比較対照できるものではない。
人によって基準が異なるという相対的なものであるということが、世の中の秩序をややこしくも楽しくするのだろう。
だから、目くじら立てず「いろんな経験を楽しもう!」という心意気でもって、何でもかんでも食してみるのが、ホントのグルメ道ではないでしょうか?
不器量な娘のいじらしさに、可愛らしさを発見する好々爺の喜びの如く、ひび割れた茶器の趣に美しさを見出す千利休の審美眼の如く、隣人家の子供が弾く、昼下がりの拙いソナチネに“ふと”心動かされるが如く、それは個人個人の自我の成り立ちに立脚する琴線に触れる体験であり、自己存在の確認でもあるのだ。

我々の人生は、日々食べるという行為を繰り返す“経験”と、"学習"を、知らず知らずのうちに積み上げている。そんなわけで、「おいしい」とは、誰でもが主張できる芸術的論争であるのだ。宗教戦争の如く、血みどろの味自慢合戦が繰り広げられることもあるし、感動を共有し合える革命同士として高らかに「おいしさ万歳!」と、むせび泣きあえることもできる「神(天使と悪魔)からの授かりもの」なのです。

さて、そろそろランチタイム。
カント(※3)曰く、「真の人間性にもっともよく調和する愉しみは、よき仲間との愉しい食事である。」
僕自身の「おいしい」の最高基準です。